2010年10月

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但馬牛・近江牛・松阪牛の歴史について

百済よりヨーロッパ種と在来種をかけ合わせた改良たねの食肉牛が、日本でも
輸入されるようになり、百済より子牛が奈良〔平安京)へと船積みされ、越前の
敦賀を目指し出港、そこでいつも通り対馬暖流に乗り、日本海を東進するのであるが、
その年によって対馬海流の強弱に左右され、日本列島への寄港地海岸も定まらず、
たまたまその年は対馬暖流が弱かったために、敦賀より西方に位置する但馬海岸
漂着、当時はそのような例は珍しくなかったと聞く。

幸いにも対馬の人達の厚い人情に触れて、乗員達は子牛の飼育を懇願してきた。
その事件を契機に、但馬地方で肉牛の飼育が始まったといわれている。

但馬の人達の努力と深究心によって、但馬牛は日本人好みの食肉牛を提供するまでになってきた。
但馬の畜産関係者達は、種族保存に勤め、牛の素牛(子牛)を出荷しました、 兵庫県の北部と
中部、京都の丹波、滋賀県の近江(湖東地方)そして三重県が主で、松阪牛、神戸牛、丹波牛、
近江牛のネーミングで高級和牛肉として今日まで来たわけです。

もちろん各地で独特な飼育をおこなっていくわけですが、但馬牛の子牛を、近江の人達の努力と
研究心により、数百年の時を経て、日本人好みの霜降り牛を提供するまでになって来たわけです。
昨今、世界の畜産業界でも、特異な肉質牛として、その存在感を高く評価されています。

仏教伝来とともに禁止されていた肉食が復活したのは戦国時代。
秀吉の小田原城攻めの時、豊臣秀吉・徳川家康・細川忠興らは高山右近に度々肉を
ご馳走になったという史実が残っている。

高山右近は近江の国甲賀群の出身で、近江には早くから肉食の習慣があったことがうかがえる。
牛肉にとって残念だったのは、肉食がポルトガル人宣教師によって広められたため、キリスト教と
ともに禁止されてしまったことだ。

だが例外はあった、彦根藩井伊家から将軍家や徳川御三家へ、養生品として毛の付いたままの
牛肉を味噌に漬け込んだものが献上されていた。
また、赤穂の大石内蔵助が堀部弥兵衛金丸に養生品として贈っていることから一般にも売られて
いたことがわかる。
禁止してはいたものの、肉食の風習を見てみぬふりをしていたようだ。

では、松阪牛についての名称由来であるが、時代は明治初期、近江牛は四日市港から船積み
されていた。
当時の四日市は、東国からの伊勢街道筋にあり、蛤(はまぐり)料理がとくに有名で、多くの
お伊勢参りの人達の休憩の場にもなっていた。

そこで松阪の知恵者が、蛤料理店の繁盛ぶりに目をつけ、永源寺越えで伊勢の地に入ってくる
近江牛(素牛の但馬牛)を松阪の地まで運ばせ、近江牛を短期間だけ飼育して松阪牛の名で、
伊勢街道筋に東国からのお伊勢参りの人達相手に、 当時日本人の間で流行のすき焼き屋を
開店、それがズバリ大当たり、元の牛である近江牛の肉質の良さが、参拝客の間で
大評判となり、益々店は繁盛して、松阪牛の名は広く東国まで知れ渡っていったという。

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